最初に感じたのは、とても大きくて暖かい手だった ────。
見上げてみたが、顔ははっきりとは判らない・・・。けど、とても優しい眼差しを感じた。
抗おうとも思ったが、予想以上に衰弱していた身体はそんな体力はもう残っていなかった。
それに抗っても無駄な事だと思った。この身体ではどう足掻いても自分を元の身体に戻せる人間に会えるとは到底思えなかったから・・・。
大人しく男の胸に抱かれると、煙草の香りがした。
それと同時に香った香水の香り ────。
きっと微かな香りなのだろう。でも猫の鼻には十分過ぎるほどはっきりと判る。普段の自分なら、香水なんてキザなヤツ、と思っていただろう。けど、不思議と嫌な感じがしなかった。それどころか、その香りがひどく心を落ち着かせた。
(なんか、とても・・・居心地がいい・・・)
高耶は考える事を止め、大人しく最期の時を待った。
どう考えても最愛の人など探せそうにない。どうせ同じ死ぬのなら、寒さに震えながらあの場所で寂しく一人で逝くより暖かな温もりを感じていたかった。
仰木高耶として生きていた時に得られなかった人の温もりを、違う形ででもいいから感じていたかった。男の手は止まる事なく優しく自分を撫で続けている。その手の感触を遠い昔に感じた手の感触と重ねながら・・・・・・。
会話が耳に入るが、まるで何処か遠くの会話のようだ。今は男の手から伝わる感触にしか高耶は興味なかった。氷のように冷たい身体に、手の温もりが少しずつ伝わってくるのが判る。
(もう少し・・・このままでいたい・・・。このまま・・・)
他の感覚を全て閉ざし、全身から感じる温もりを探る。少しも逃さないというように・・・・・・。
そうしてじっとしていると、高耶は眠くなってきた。
(あぁ・・・これが、最期・・・か・・・)
ぼんやりと考えていると、男が歩き出した。静かに歩いてはいるようだが、僅かな振動が伝わってくる。男は車に乗ったようだ。先程とは体勢が少し変わったが、男の手は大事そうに高耶を包んだままだった。蹲っていると不意に男の視線を感じたが、顔を上げる気力も失せていたのでそのままでいると、男はスーツの中に自分を入れた。
(な・・・何するんだ・・・?)
腹の上辺りだろうか。男が呼吸するたびに僅かに上下するのが判る。シャツに触れた感触に高耶は身体を少し揺らしたが、男はスーツの上から先程と同じように撫で続けた。まるで恐がらなくてもいい、と言うように・・・・・・。
高耶はその感触に身を任せ、車の振動と、時折聞こえるカタカタという音を子守唄に、高耶は眠りについた。
「旦那!着きましたぜ」
15分ほど走って行きついたのは、どこかの商店街の端だった。直江は手を止めて外を見た。
「・・・何処だ?ここは」
「獣医の所ですき。はよせんと猫がヤバいですやろ、旦那」
「あぁ、そうだな」
直江はパソコンの電源を落としコートを羽織り、子猫が服の間で息をしているのを確認して車を降り立った。外気に触れないようにとコートの前を閉じ、目の前の建物を見上げた。
「嘉田・・・動物病院?」
「儂の同郷のヤツです。口は悪いかも知れないですが、腕は確かですきに」
一蔵に促されて直江はドアへ向かった。一蔵が先に行ってインターホンを押すと、すぐに返事が帰ってきた。
「誰じゃ?」
「儂じゃ、一蔵じゃ!はよ開けとうせ」
「おぉ、待っとったが。ドアは開いとるから、はよ診察室の方へ来い」
ドアを開けると、オフホワイトで纏められた内装が目に入った。普通の病院のような冷たさはあまり感じられない。
一蔵の後を追って直江は診察室に入った。電話してあったからだろう。部屋の中は十分に温められており、椅子には長めの黒髪を後ろで一つに束ねた体格の良い男が座っていた。
「思ったより早かったな、一蔵。で?患者は何処じゃ」
「ここだ。だいぶ落ち着いたようだがまだ震えている。大丈夫なのか?」
直江は服の中から高耶をそっと取り出し、男に手渡した。
「う〜ん・・・。こりゃだいぶ弱っとるな。点滴せにゃならんだろう」
「嶺次郎、助かるんか?死んだりせんか?!」
「煩い!何とかするのが儂の仕事じゃ。少しは黙っとれ」
怒鳴られた一蔵は小さくなって部屋の隅に行ったが、直江はそのまま診察台の横で様子を見ていた。嶺次郎と呼ばれた獣医は気にする事なく子猫を診察していく。
「ぱっと見ぃ、ノミ・ダニはいないようじゃ。だいぶ体温が下がっちょる。カルテをつけにゃならんし一応体温を測っとくか」
嶺次郎は毛布の上に高耶を置いて体温計を取りに行った。手の温もりがなくなったからだろうか・・・。子猫が身体を大きく震わせてゆっくりと眼を開けた。
(う・・・ん、眩しい。ここ・・・どこだ?)
明るい所は久しぶりだったせいか、高耶は眼を細めた。先程まであった手の感触がない代わりにフカフカの毛布があった。
(あれ?俺・・・まだ生きてる・・・?)
相変わらずぼんやりとしか見えない眼で辺りを見回していると、男が一人やって来た。
「お?眼が覚めたようじゃのぅ。熱測るきに、ちょっとじっとしとれよ」
今まで聞いた事のない声の男は言い終わったかと思うと、がっちりと高耶のお尻を掴んだ。男がしようとしている事に気付いた高耶は猛然と暴れ出した。 昔、友人の犬が病院に行った時にどうやって熱を測るのか見た事があったからだ。
「ミィ〜!ミィ〜〜ッ!!(止めろ〜!俺はそんな趣味ねぇ〜〜!)」
「お、おい!暴れるな!どこにこんな力が残ってたんじゃ」
嶺次郎は驚いて押さえに掛かったが、闇雲に暴れる高耶に左手を引っ掻かれた。
「つぅっ!・・・ったく、言う事聞かんと痛い目に合わせるぞ」
その言葉に驚いた高耶は、逃げようとして診察台の上を走った。言う事を聞かない身体で必死に走り、診察台の端まで行ったが床までの高さに驚いて脚を止めた。しかし、勢いがついていたのとふらつく身体のせいでバランスを崩し、診察台から転げ落ちた。
「ミィッ!(わぁっ!)」
衝撃を覚悟した高耶は身体を丸めたが、思ったような衝撃は来なかった。その代わりに暖かい感触が伝わってきた。
「ミィ・・・(あれ・・・)」
「そんなに暴れては駄目でしょう。いい子だからじっとして・・・」
よく通る低い声で話しかけられた高耶は、自分を大事に抱えていた男の手の上に落ちた事に気付いた。 ゆっくりと顔を上げると、間近に男の顔があった。 やはりぼんやりとしか見えなかったが、男は怒っているようでもなく、優しく高耶を見詰めているようだった。 大人しくなった高耶を直江は診察台の上に乗せ、暴れないように高耶を優しく撫でた。
「ほぉ・・・。おまんが触ると大人しゅうなるんか。まぁ、ちょっとの間そうしててくれ」
そう言って嶺次郎は、ぐっと高耶を再び掴んだ。途端に高耶が震え出したので、直江は高耶に声をかけながら撫で続けた。
「大人しくしていればすぐに済みますから、いい子にして・・・ね?」
(俺は人間だったんだぞ!そんな事言われてもそんな簡単に頭ん中、切り替わんねぇよ!)
高耶は絶叫したかったが、子猫である以上どうしようもない。
(猫の身体だ・・・俺じゃねぇ・・・俺じゃねぇ・・・!)
高耶は呪文のように自分に言い聞かせながらなんとか耐えた。屈辱的な体温測定が無事に終わり、ホッとしたのもつかの間、嶺次郎は高耶の右前足の毛を剃り出した。高耶もさすがに大きな剃刀を前に暴れる気は起こらずじっとしていると、点滴を刺された。
嶺次郎は聴診器を当て、診察を済ませると直江に向かって容態を話し出した。
「弱ってはいるようじゃが、発見が早かったしすぐに元気になるじゃろう。とにかく体温が下がらんようにしてやるんじゃ。後は少しずつでえぇから栄養をつけるんじゃな」
「体温を下げないように・・・か。電気毛布でいいのか?」
「あぁ、構わん。電気あんかやカイロでもえぇぞ」
「判った。それと猫の餌だが・・・」
「あぁ、一蔵から聞いとる。ウチに置いてあるきに、どれでも好きなもん選んでいけ・・・と言いたい所じゃがコイツはまだミルクじゃからな。後で薬と一緒に出してやる。ある程度大きくなったら離乳食から徐々に慣らしていくんじゃ。大変だろうが頑張るんじゃな」
思ったより手が掛かりそうなので直江は少し考え込んでしまった。自分一人で世話が出来るのだろうか。もしかしたら途中で死なせてしまうのではないかと不安になったが、清掃員と約束した手前、放り出す訳にはいかなかった。
「旦那。仕事がある時は儂が面倒見ますきに・・・、安心しとうせ」
「・・・あぁ。頼んだぞ、一蔵」
「はい!任せとうせ、旦那!」
直江に頼りにされるのが嬉しいのか、一蔵はにこやかに笑った。
「後、他にもいる物があるだろう。俺はよく判らないからお前が適当に見繕ってくれ」
「へい、判りやした」
軽快に返事をした一蔵は、嶺次郎と一緒に診察室を出て行った。
診察室には直江と高耶だけが残された。直江はずっと高耶を撫でている。
高耶は直江の顔を見ようと顔を上げたが、やはりぼんやりしている。嶺次郎の話だと目がはっきりと見えるまではまだ時間がかかるようだ。どんなヤツが自分の飼い主かちょっと心配ではあったが、悪い人間ではないようだ。高耶の思考が伝わったのか、直江が高耶に話かけた。
「私が暫くは君の飼い主です。不安かも知れないが我慢して下さいね」
高耶は直江の言葉に吹き出しそうになった。一緒にいてもそんな嫌な感じもないし、高耶は直江の世話になる事に決めた。
「ミィ〜!(あぁ、よろしくな!)」
点滴が終わり、高耶を抱いた直江は精算を済ませ車に向かった。一蔵は車のトランクに買った荷物を積み込んでいた。一緒に出てきた嶺次郎は直江を見てニヤリと笑った。
「おまん、動物に好かれるようじゃの」
「今まで動物など飼った事はないぞ」
ムッとした顔で睨んできた直江に嶺次郎は声を上げて笑った。
「・・・何がおかしい?」
「ははは・・・いや、少なくともその猫には好かれとるぞ」
直江は服の中にいる高耶を覗き込んだ。点滴と少しのミルクで落ち着いたのか、今は震える事なく静かに眠っている。
「一緒に暮らすんだ。嫌われては困る」
直江の言葉にもっともだ、と思った嶺次郎はまた笑った。
「3日後にもう一度診察に来い。時間はいつでも構わんからな。判らん事があったらいつでも電話くれ。アドバイスしちゃるきに」
「あぁ。宜しく頼む」
そう言って直江は嶺次郎と別れ、車に乗り込んだ。
「あ、旦那ぁ、終わりやしたか?」
「あぁ、随分と遅くなってしまったな。急いで帰って仕事を済ませないと間に合わん」
「判ってますって!行きましょうか、旦那」
2人と1匹の乗った車は、直江のマンションへと走り出した。
こうして猫となった高耶と、動物を飼った事のない直江の共同生活が始まった ───。
背景(C)Salon de Ruby
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