「ふぁ〜!終わった、終わったぁ!お疲れさんっと!」
「あ、儂、コーヒーでも煎れてきます」
「・・・・・・・・・・・あぁ」
やっと仕事が終わったのか、書斎のドアが開き、一蔵と千秋が出てきた。
直江は最後の確認をしているのか、まだパソコンの前にいる。
「うっわ!なんだ?この暑さは?!直江、お前こっちのエアコンつけてなかったのかよ?!」
あまりの暑さに驚いた千秋が、げんなりとした表情で振り返る。
「あぁ、高耶さんがどうしてもダメだって言うからな」
直江は当然という表情で答えると、確認が終わったのか、パソコンの電源を切り、立ち上がった。
「・・・・・・・・へぇへぇ。俺が悪ぅございました」
今の直江は全てが高耶中心だった事をすっかり忘れていた千秋は呆れたように返事をすると、全ての窓を閉め始めた。
「それにしても暑いっすねぇ」
「あぁ。こんな暑い所いたら茹っちまうぜ」
書斎はエアコンが効いていたので、ここまで暑いとは2人共気付かなかったようで、一蔵は慌ててアイスコーヒーの用意に切り替え、千秋は窓を閉め終わると、片手で扇ぎながらソファに寝転び、エアコンのスイッチを入れた。
そんな二人を他所に、直江は書斎から出てくるとまっすぐダイニングに向かい、一蔵を手伝うでもなく、しゃがみ込んだ。
「旦那?・・・・・・・・何やってんです?」
「・・・・・・・高耶さんはどこだ?」
「はい?そういやぁ、いないっすね」
一蔵もキョロキョロと見回してみたが、それらしい物体はない。
ずっとダイニングの床にいた高耶の姿が忽然と消えているのだ。
「・・・・・・・・・・・・・」
「あ、ちょっ・・・・旦那?」
直江は無言で立ち上がると、リビングを出て高耶を探し始めた。
(一体、何処へ行ったんだ・・・・)
1部屋ずつ丁寧に探してみるが、高耶の姿は何処にもない。
一人で玄関から出る事はいくら何でも不可能なので、絶対にこの家の中にいるはずなのだ。
(まさか・・・・、この暑いのにテラスに出ているんじゃ?)
慌てて踵を返すと、直江はリビングへと戻る。
「あ、旦那!ちょうどコーヒーできまし・・・・うわぁっ!」
タイミングよく現れた直江に、ダイニングからコーヒーを持って出てきた一蔵はにこやかに言ったのだが、今の直江には見えていないようでぶつかりそうになり、慌てて引っ込んだ。
直江はそのまま部屋を横断し、テラスへと出た。
「高耶さん・・・・・・・。高耶さん?」
この時間では影の部分が少なく、いるはずもないのだが、直江はそれでも念入りに探す。
「おい、直江。何やってんだよ!折角冷えてきたのに開けっ放しにすんな!」
ソファに寝転んでいた千秋からのブーイングもやはり聞こえていないのか、直江はテラスから戻って来ない。
「兄貴ぃ、今の旦那に何言っても無駄ですぜ」
「・・・・・・・・そうだな」
千秋は呆れ顔で一蔵から手渡されたアイスコーヒーにストローを突っ込み、氷をカラカラと回した。
「あの直江がこんな姿になっちまうとはねぇ。世の女達が知ったら泣くだろうな」
「・・・・・ですね」
千秋の向かい側に座った一蔵も、溜息をつきながら同じようにカラカラと音を立てた。
グラスを見つめ、俯く一蔵に千秋はニヤリと笑う。
「お前もそのうちの一人ってか?」
「へっ?えっ!!なっ、何の事ですかぁ、兄貴!!儂はそんな・・・・!!」
顔を赤くしてバタバタと手を振り、必死に否定する一蔵を見て、千秋は思わず笑ってしまった。
「冗談だよ、ったく・・・・・。おっ?」
そんな2人に気付いているのかいないのか、直江が部屋に入ってきた。
「よぉ、バカ虎はいたか?」
「・・・・・・・・・・・いや」
千秋の問いかけもあまり耳に入っていないのか、かろうじて返事はしたものの、直江はスタスタとリビングから出て行った。
「心ここに在らずってか?」
「みたいですね」
二人は直江の後姿を見送ると、当分帰ってこないだろうとソファに寝転んだ。
(何故どこにもいないんだ・・・・・)
玄関へと続く廊下に一人佇み、直江はだんだん焦りだした。
どう考えてもおかしいのだ。
家中探したのに見つからない。高耶の身体が入りそうな小さな隙間まで探したのに何処にもいない。
暑さなのか焦りからか、額から汗が流れた。
リビングはエアコンをつけたが、それ以外の場所はまだ窓が開いてはいるが、蒸し風呂のようだ。
(こんなに暑い場所にいるはずないのに・・・・・)
全身を包み込む空気は湿度が高いせいもあって纏わり着いてくるようだ。
不快感に思わず直江は眉を寄せる。
どれだけ考えても思い当たる場所がないし、このままむせ返るような暑さの中で考えても埒が明かないと考えた直江は、少し頭を冷やそうと、直江は洗面所へと向かった。
水道から出る水は、思わず捻る蛇口を間違えたのかと思うほど熱い。
しばらく出しっ放しにして冷たくなるのを待ち、直江は顔を洗った。
前髪から滴り落ちた水滴が、落ちては細い筋を描いて排水溝へと流れていく。
そんな光景を、直江は洗面所の縁に両手をついてぼんやりと眺めていた。
「一体・・・・・何処へ行ったんですか、高耶さん」
そんな呟きに答える鳴き声はない。
ゆっくりと顔を上げると、そこには憔悴しきった自分の顔があった。
(ふっ・・・・・何て様だ)
あまりの酷い有様に、直江は思わず自嘲するように笑った。
仕事が上手くいかなくても、意中の女が手に入らなくても、今までこんな顔はした事がなかっただけに、自分の中での高耶の存在の大きさを知った。
(そんなに長く一緒にいる訳でもないのに・・・・・・)
だが、高耶がいる事で、自分がどれだけ癒されているかは直江自身が一番よく判っている。
(これではもう、彼を手放せないな・・・・・・、おや?)
ぼんやりと鏡を眺めていたのだが、直江はちょっとした異変に気付いた。
いつもならきちんと閉められているはずの浴室のドアが少し開いていたのだ。
(風がある訳でもないし何故・・・・・?まさか・・・・・っ?!)
直江は振り返ると、ゆっくりと近付き、そっと浴室のドアを開けてみた。
すると・・・・・・・
「・・・・・・・・・・・・・・・高耶さん」
呆れたというか、安心したというか。
全身の力が抜けた直江は、思わずドアに寄りかかり、額を押さえた。
直江が見たのは、バスタブのすぐ脇の床に気持ちよさそうに寝ている高耶の姿。
(全く、こっちの気も知らないで・・・)
いつまでもこんな所で居させる訳にもいかないと考えた直江は、浴室へと足を踏み入れた。
一歩踏み込んだ所で足が止まる。
(・・・・・・・・・なるほど。熟睡するはずだ)
足の裏からタイルの冷たさが伝わってきたのだ。
おまけに浴室の窓にはすべてブラインドがきっちり閉められているせいか、空気も少しひんやりとしている。
換気扇が稼動しているおかげで、空気が緩やかながらも動いているからか、なかなか快適な場所だ。
いつもなら直江の足音や気配で起きる高耶も、よほど暑さで参っていたのか居心地がいいのか、起きる気配がない。
直江は苦笑しながら高耶をそっと撫でた。
「・・・・・・高耶さん、こんな所にいたんですか」
「・・・・・ふみゅ・・・(・・・・ん・・・・、直江?)」
うっすらと眼を開けると、高耶は転がったまま伸びをして、大きな欠伸をした。
「私に気付かないとは・・・・。余程ここが気に入ったんですね?」
「みゅ〜(だって涼しいんだもん♪)」
ゴロゴロと喉を鳴らす高耶を撫でながら、直江は高耶の横に腰を下ろした。
「ふみゅっ!(冷てぇっ!)」
座った反動で、直江の前髪から落ちた水滴が高耶の顔にかかり、高耶は思わず飛び上がってしまった。
「あぁ、すいません。拭くのをすっかり忘れてました」
「みゃ〜(何やってんだよ、お前)」
いつも完璧な直江なのに、一体どうしたのかと思った高耶は、直江の膝に飛び乗った。
大きな瞳で見上げてくる高耶を直江はそっと抱き上げる。
(直江の身体、すっげー熱い・・・・・)
「貴方の姿がどこにもないので心配したんですよ?家中探したんですから。それでちょっと頭を冷やそうと思ってね、顔を洗ったんですが・・・・。すいません、本当に忘れてましたよ」
申し訳なさそうに告げる直江の身体は、暑い室内にいた事を十分すぎるほど高耶に判らせた。
「みゅ〜・・・・(ごめん、直江)」
小さく一鳴きすると、高耶は直江の顔に残っている水滴をペロペロと舐めだした。
言葉では伝えられない高耶にとって、直江に気持ちを伝えるには擦り寄ったり、こうして舐めたりする事しかできない。
何とか想いを伝えようと一生懸命舐めると、直江は表情を歪めた。
「ちょ・・・っ、高耶さん?!あのぉ・・・・舐めてくれるのは嬉しい・・・・んですが、猫の舌はちょっと・・・・、痛いですよ」
(あ、そっか!)
猫の舌がザラついている事をすっかり忘れてしまっていた高耶は、直江の言葉で舌を出したまま固まってしまう。
その表情があまりにも可愛らしくて、直江は優しく微笑み、フサフサの身体を撫でた。
「いいんですよ、少しくらい痛くても。ちゃんと気持ちは伝わってますから」
「みぃ〜(サンキュ、直江)」
言葉が通じなくても、直江はちゃんと高耶を理解してくれる。
それが嬉しくて、高耶は直江の手に頭を擦り付け、ゴロゴロと喉を鳴らした。
それを微笑ましく眺めながら、直江はバスタブに凭れかかり、足を伸ばした。
背中や床に触れた足から徐々に身体が冷えていくのを感じ、直江は思わず感嘆の息を漏らした。
「みぃ〜(どうだ?直江)」
「冷たくて気持ちいいですねぇ、バスルームがこんなに涼しいとは以外でしたよ。なんだか病み付きになりそうだ」
「・・・・みゅ(・・・・・直江、大丈夫か?)」
そんな答えが帰ってくるとは思わず、高耶は直江の顔を見上げた。
(大体、お前が服のままここに寝転んだら変だろうが・・・・・)
言いたいのは山々なのだが、とりあえずは黙っておく。
じっと見つめる高耶が何を言いたいのか気付いたのか、直江は苦笑した。
「確かに私がここに寝転んでいたら変でしょうし、なにより一蔵が大騒ぎして大変な事になりますよ」
「みゃ〜(確かに・・・・・・)」
2人は同じ事を思い出したのか、顔を見合わせた。
以前、仕事中に直江が会社を抜け出し、綾子の店で待っている高耶の様子を見に行った事があるのだが、少しの間だし・・・・、と直江は誰にも行き先を告げずに行った。
それが悪かったのか、部屋に直江がいない事に気付いた一蔵が「誘拐された!!」と大騒ぎしたのだ。
綾子の店でくつろいでいると、急に表が騒がしくなったので、何事かと思った直江は高耶を抱いたまま外へ出ると、警察車両が来ていたというとんでもない騒ぎになった事があったのだ。
「あれには参りましたからね。ここにいたらきっと一蔵は気付かずに大騒ぎしますよ。また『誘拐だ!』とか、見つけても倒れたと思い込んで『救急車〜!』とかね」
「・・・・・・・・みゅ(・・・・・・・・・それだけは勘弁してくれ)」
小さく丸まる高耶を撫でながら、直江は苦笑した。
「早く向こうに行かないとまた大騒ぎされそうですし、そろそろ行きますか」
「ゴロゴロ・・・・・・・(もうちょっとだけ・・・・・)」
ずっとここで寝ていたせいか、体が思ったより冷えていて直江の身体の熱さが心地よく感じる。
高耶は喉を鳴らしながらコロン、と直江の上に寝転んだ。
そうされると直江も立ち上がる訳にもいかず、起こしかけた身体を元に戻した。
直江は高耶の身体の冷たさが、高耶は直江の身体の熱さが心地よくて、ここから動きたくなくなっているのも確かだ。
「向こうも涼しいのに・・・・・。仕方ないですねぇ、少しだけですよ」
「ゴロゴロゴロゴロ・・・・・(サンキュ・・・・・)」
優しく撫でる直江の手に時折じゃれつきながら、高耶は喉を鳴らす。
それに、ここならリビングにいる賑やかな二人に邪魔される事なく静かに過ごせる。
2人は暫くの間、ここで過ごす事にした。
猫は居心地のいい場所を探すのが得意である。
暑くても寒くても、必ず快適な場所を見つけて移動する。
高耶も例外なくこの行動をとってしまうのは、この身体故かはわからない。
(でも・・・・・。やっぱ一番居心地のいいのは直江の腕の中だな・・・・)